2007/08/29
おわら風の盆・・・越中おわら節の起こり
おわら風の盆は の内容はこちらからみてくださいね。
この越中おわら節の起こりについてご案内いたします。
越中おわら節は、今から370年前の慶長のころ、米屋小兵衛という者の尽力で、八尾と宮述領桐山が合併し、加賀藩から町立の免許を受け、町民たちの生活も大いに楽になりました。
ところが2代、3代とつづくうちに米屋の家も家産が傾き、元禄のころ、加賀藩のお墨付きをもったまま、小兵衛の子孫は和合町西岩瀬へ引っ越してしまいました。
このお墨付きがないと、町は大変なことになりかねないので、八尾の代表者たちは再三西岩瀬へ交渉に出かけましたが、先方は一向に受け付けてくれません。そこで町民たちは一計を案じ、花見と偽って米屋宅におしかけ、初代小兵衛をしのぶ大宴会を開きました。そして宴たけなわの頃合いを見計らった一人が、その騒ぎにまぎれて土蔵かに忍び込み、秘蔵のお墨付きを盗み出すと、何食わぬ顔をして八尾町に帰っていきました。
この知らせを聞いた八尾の人たちは、喜びのあまり、笛や太鼓を持ち出して、三日三晩を踊りあかしたのがそもそものはじまりであるということです。
したがって、当初はきわめて単調なものであったと思われますが、長い月日の間に洗練され、今日のような素朴な中にも情緒のある踊りに仕上げられてきたと云われます。
この踊りはその後、盂蘭盆の3日間に踊られるしきたりとになっていましたが、やがて二百十日の風害の厄を除け、豊穣を祈るという「風の盆」になったものでございます。
この越中おわら節の起こりについてご案内いたします。
越中おわら節は、今から370年前の慶長のころ、米屋小兵衛という者の尽力で、八尾と宮述領桐山が合併し、加賀藩から町立の免許を受け、町民たちの生活も大いに楽になりました。
ところが2代、3代とつづくうちに米屋の家も家産が傾き、元禄のころ、加賀藩のお墨付きをもったまま、小兵衛の子孫は和合町西岩瀬へ引っ越してしまいました。
このお墨付きがないと、町は大変なことになりかねないので、八尾の代表者たちは再三西岩瀬へ交渉に出かけましたが、先方は一向に受け付けてくれません。そこで町民たちは一計を案じ、花見と偽って米屋宅におしかけ、初代小兵衛をしのぶ大宴会を開きました。そして宴たけなわの頃合いを見計らった一人が、その騒ぎにまぎれて土蔵かに忍び込み、秘蔵のお墨付きを盗み出すと、何食わぬ顔をして八尾町に帰っていきました。
この知らせを聞いた八尾の人たちは、喜びのあまり、笛や太鼓を持ち出して、三日三晩を踊りあかしたのがそもそものはじまりであるということです。
したがって、当初はきわめて単調なものであったと思われますが、長い月日の間に洗練され、今日のような素朴な中にも情緒のある踊りに仕上げられてきたと云われます。
この踊りはその後、盂蘭盆の3日間に踊られるしきたりとになっていましたが、やがて二百十日の風害の厄を除け、豊穣を祈るという「風の盆」になったものでございます。
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